障害者のために政府がインフラを何とかするために金を出すとか、それは結局税金という形だろうが意味があることだと思う。が、一般人に金を出せというのならそれは違うのではないかと思う。それはあくまで善意という形であるべきだろう。金の話ではないではないかという人が居るかもしれないが、何らかの労力を強いられるということは金と同じことだ。所謂機会費用。誰も他人から財産を奪う権利など無い。店にはコストにあわない客を断る権利も無いのだろうか。
東日本大震災の時も風評被害がどうだとか東北の農作物を買わない人の人間性を否定するような論調を展開し、結局外食産業だけを儲けさせたマヌケたちのことを考えると、構造がよく似ている。「XXXと考えない人の人間性を疑う」ような構造はいろいろな所にある。以前右翼か何かが捕まったときに「差別問題は金になる」と発言していた。なぜ金にしやすいかというと上記のような構造を作りやすいからだ。
今回乙武君がこんなことをしたのは、本当に怒ったからかもしれない。そうではなくて、自分の存在を誇示すればそれで足りるという思考があったかもしれない。後者だとしたらこういった個人ブログで書かれるということは彼にとってしてやったりなのだろう。もしも前者だとして単に言葉遣いや態度に怒っただけならそれはそれで収めればよいのだが、そうではなく障害者への云々という構造だとしたら、マイルドな恐喝のようなものだろう。
で、こんなこと言っている政治家が居るが、所謂善意を持って欲しいと言っているだけならば問題ないのだが、言葉どおりに本当にそうしろという意味で言っているとしたら、この人は自由の国の政治家とは言えない。