僕は言葉の本来の意味というものは無いと思っている。正しい日本語という言い方をされるが、それはその世代がそう思い込んでいるだけのことも多いからだ。たとえば「ぜんぜん大丈夫」という”ぜんぜん”の後に肯定を入れるようなものは日本語の乱れだと少し上の世代は思っているようだが、もっと上の世代では普通に使われている。


又、誤用されたってたいして害の無いものは誤用されて、本来の意味が消えてもかまわないと思う。「情けは人のためならず」が”情けは人のためにならない”という意味で誤用されていると嘆く方々が居るが、別によいではないか。皆がそのように使用していけばそういった意味に変わるのだ。言葉に元来の本質的な意味などは無く、その使用されていく過程で如何様にも変化するし、その変化しているものを僕らは使用しているのだから。そしてその誤用がたいして気にされないのは、誤用による害がほとんど無いからであろう。 「情けは人のためならず」なんていわなくても「親切にすると自分に帰ってくるよ」と言い換えれば済む話なのであって、 「情けは人のためならず」という言葉の意味の変遷などそれほどの問題ではない。問題になるのは文学文芸の世界だけだろう。


専門書が奇妙な言葉を使用しているのはなぜだろうか?例えばUNIXに少しでも触れたことがあれば"775"という言葉で文脈混みですべてを理解できる。が、これを文章で表現するとかなり大変なことになる。要は文脈混みですべてを表せるので、こういった言葉の組み合わせが更なる高次の表現を可能とするということだ。 「情けは人のためならず」などのレベルだと、そういった高次の表現には余り必要が無いことが多い。ほとんど同じ語数で表せるからだ。使用感は余り変わらないので、後はどちらの表現だろうが”味わい”という個人的な感覚に関わることになる。


そこで表題だが、悪貨は良貨を駆逐するの誤用をちょくちょく見かける。悪いものが良いものを駆逐するという意味らしいが、格好つけたがって使用している割には語数が多いし、何しろ意味が違いすぎる。経済の分野で使われる本来の意味はむしろ逆なのだ。


「金含有量の少ない悪い通貨とそうでない通貨が同額の価値を中央銀行なり政府なり藩やら幕府なりから保証された場合、悪い通貨を早く処分し手元にはよい通貨を溜め込もうとする。市場には悪い通貨のみが流通され、よい通貨は退蔵されるばかりとなり、悪い通貨の価値は実質下がり始め、物価の・・・・エトセトラ」


誤用の悪は文脈の破壊にある。そしてそれは語数の問題である。だから語数が変わらない誤用は許せるが、文脈を破壊して語数を縮める機能を失わせるような誤用は許せない気分になる。著者が格好つけているつもりの場合は特に気持ち悪い。