内館牧子という人が将棋世界に連載している、「月夜の駒音」というのがある。一話一話のエッセイだ。僕はこのシリーズが好きではない。 彼女のエッセイは何かと若者やら社会やらへの近所のおばちゃんレベルの批判があり、それが論理的ではなく自分の感情から出ているので、ありていに言えば大きなお世話としかコメントしようがない話が見受けられる。典型例として次のような話があった。自分の職業を”孤独だ”と発言する人に反感を覚えるということが書かれており、それに引き換え羽生は・・・という展開だ。羽生が週刊誌のインタビューで「将棋は相手がいる勝負だから孤独ではない」と言った事を例にして、週刊誌が勝負師の孤独をしゃべらせようとしたにもかかわらず羽生がそういう風に答えたことを賞賛しているという話だ。

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 これはあくまで私の勘だが、羽生さんはたとえ孤独でも、そう答えることを潔としなかったのではないか。これぞ、日本の精神文化である。私は羽生善治という天才棋士の、その美意識に打たれた。
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 羽生が週刊誌の意図に逆らって言ったかどうかは解らない。僕自身はそういう意図があるわけではなく、羽生が本当に孤独に感じていないだけではないかと思った。実際問題羽生がどう思っているのかは誰にもわからない。あの思慮深い発言の陰で同僚棋士を小ばかにしているとしても別に驚かない。まぁ、そんなことはないと思うが。

好ましくないのは、この妙な一般化だ。羽生がそう考えたという予想をすること自体は良いのだ。僕はこの予想が外れていると思うのだが、それも別に良い。問題はなぜ羽生がそう考えたという予想だけをよりどころに、日本人の精神文化がどうこうなんて言えるのだろうか。そういう思考回路こそ日本の精神文化とか美意識から程遠いところにあるような気がする。ただ、これを彼女だけの責任にするのは違うと思っていた。そういうのが求められている風潮があるから飯の種として仕方なく書いているのかな、もしかしたら将棋連盟に書かされているのかなと。なんということを思っていたらこれだ。

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題名も例によって「精神」だが、内容も例によって例のごとくだ。もう少し考えて書いたらどうなのだろうか?この人単にこういう人なだけだ、もはやそうとしか思えなくなった。彼女が書いた内容についてはここでは述べない。僕自身はそこまで興味のわくような話ではなかった。あと、なおざりとおざなりの違いとか解説しない。僕も良く間違えるし。少なくとも多くの人の目に触れる雑誌で「五十歳にもなって、教養がないんだなァ。相手にするだけ無駄だわ」というような教養のかけらもない口語体文章を書き、相手を批判するのではなく貶めると言う姿勢が教養あふれた文化人を自称する彼女のやり方なのだろうか。伊藤氏に反感を持っている人もいると思うし、氏も批判を完全に免れるほど細心の注意を払って言葉を選んでいるわけではないようなので、批判するのは良いと思う。だが、自分の媒体を使って口汚く罵るというのはどうなのか?この件で内館牧子を擁護出来る人がいるのだろうか?

羽生を礼賛した件といい今回伊藤氏への誹謗といい、一応本人は将棋ファンに媚びているとも言えるし、もしかしたら将棋ファンの「代弁者」だと思っているかもしれない。どう考えているか本人にしか分からないのだが、ともかく代弁者だと思って書いているのだったら、とりあえずその妄想を捨ててから書いてほしいものだ。

ともかく訴えられて和解とは言え内容的には負けたわけだ。精神性が大好きな氏のことなので、日本人の精神性を語る前に少しは日本人の精神性を勉強して反省すると良いかもしれない。あと将棋世界に「精神がどうこう」という皮をかぶっておきながら内容は下品というような文章は今後要らないです。「月夜の駒音」は俺たちの戦いはこれから始まる、の方向でお願いします。二ページなんだから白紙でも良いです。