最近一回り上の人間と飲む機会があった。なかなか楽しい人だと思っていたのだが、例の司馬遼太郎の熱烈ファンなのには困った。いや、好きなだけならかまわない。例えば男でもセーラームーンが好きな奴だって居るだろう、そのあたりは個人の趣味だからかまわないと思うし、尊重すべきだと思う。だが、セーラームーンで人生を語られると扱いが面倒になるのは首肯してくれるものだと思う。いわゆるオタクのうざさというやつだ。ホントうざいよお前ら。、


僕はカラマーゾフの兄弟や悪霊を何度も読み返している。ドストエフスキーは好きだ。が、それで人生をかたろうとは思わないし、ましてや酒の席にそれをもって人に何かを押し付けたことは無い。別にドストエフスキーだから高尚だなんて思っていないというのが根底になる。あれはもともと娯楽のはずだ。同じく、司馬遼太郎が高尚なんて全く全然天地がひっくり返っても思わない。中学時代に読んで楽しかったがそのレベルの本だと思っている。しかしながら、司馬遼太郎で人生を語る奴はセーラームーンで人生を語る奴より高尚だと思い込んでいるだけ厄介だということだ。こうなると全く宗教と同じで、こんな良いものを何で信仰しないんだ、そういう雰囲気になってくる。所詮歴史物語なんだから楽しめば良いではないか。なぜそれを人生と結び付けようとするのか。ましてや人に押し付けようとするのか、さっぱりわからない。いい年をして現実と空想の区別がつかないようだ。


僕は楽しそうに話している人は嫌いではない。アニメファンであっても心底楽しそうに語ってくれれば、こちらもそんなに楽しいのか、という気分になれる。大学時代に好きな授業に美術があった。別に美術に興味が無いが、その教授が心底楽しそうに語るので、その分野の本をさがして読んでいたことがあるくらいだ。小林秀雄の「近代絵画」に感動し、上野の美術館に行った事を思い出す。楽しく語ってくれれば興味はわくものだ。が、それを人生という言葉で味付けした上で、人に押し付けたくなるものらしい。そして押し付けられるものは大概「わかった気になれる」ようなモノばかりだ。実際には分かったようになれる程度のものだからこそ、押し付けやすいのだろう。自分などまだまだ理解が及ばないというレベルのものに触れているなら安易に押し付けは出来ないはずだ。みだりに神の名を唱えるな、というところか。


彼はムキになって勧めてきたが、途中から面倒くさいので話を聞いていなかった。司馬遼太郎をお勧めできる対象年齢は高校生くらいと思っていたが、こういった現実と空想の差がわからない人間に会うにつれ、対象年齢がどんどん下がってくる。今は小学校高学年くらいに勧めるのが妥当だとさえ思っている。