怪しい理論

人生をポイント制にする

読む人が読むと僕が誰だかばれてしまいそうだが、まぁいいだろう。あれから20年、すべてが思い出だ。大学から歩いて1分くらいのところハイツと呼ばれる魔窟があって、その近さゆえ用も無いのにたむろする人間が多かった。僕も例外ではなく、とある人の部屋に入り浸っていた。その彼、K君としようか、の部屋に入り浸ってゲームなどをやっていた。結局3年から校舎が変わることもあって二年ぐらいの付き合いとなった。今思うと彼はいい奴だった。基本的に穏やかで人の悪口を言わず、全般的に人がいい。今思うとかなり人格的に尊敬できる人物であった。で、彼には問題があった。それがポイント制という奇妙な制度だ。ポイント制とはなにかというと、彼が生活の何らかにポイントを定義して、自分の中で人生に点数をつけるものだった。例えばゲーセンで格ゲーで勝ったら何点とか、特に有用ではない日常のものについても彼の基準でどんどん点数をつけていく。その基準は当然彼にしかわからない。
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かけ算の順序にこだわらないブロガー様へ

暇なときを見つけて短期の家庭教師をやっている。これが又気晴らしになっていい感じだ。算数と英語を教えることが多いのだが、算数が出来ない子は国語力が足りないと思う。単純な計算問題ならば反復練習なのだが、少しでも文章がある場合は、内容を日本語で理解した後、算数世界の言語で置き換える必要がある。日本語→算数の変換で失敗するのは分かるが、それ以前に日本語で理解できていない子が結構多いのに驚く。


かけ算の順序にこだわる教師と出版社の皆様へ 

で、これだけど、

----------------------------------引用---------------------------------------------------------------------
 xとyと言う変数を使っているので小学6年生に教える内容のようだ。「常に式の意味をしっかりと意識させることが大事である」と書いてあるのだが、わけがわからない。冗談抜きで理解不能なルールが出来上がっているようだ。
彼らはx円のノート8冊の代金はx+x+x+x+x+x+x+x円と考えるらしい。加法から乗法を教えるのは分かる。しかし、x+x+x+x+x+x+x+xをx×8と表記するのはありで、8×xと表記するのは無しと言うのは理解できない。「8円のノートx冊」の意味にならないから。日本語でも「x円のノート8冊の代金」は「8冊のx円のノートの代金」と書き換えることもできる。また、交換法則を教えてある以上、x×8と8×xを同値と見なさないのは教育内容と合致しない。x×8=yが自然でy=x×8が不自然と言うのも、等式の意味から理解し難い主張だ。
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掛け算の問題が出ると分かっていれば、その理屈を考えずに文章中にある数字を拾って掛け算して答えを出してしまう生徒も居るはずだ(結構多い)。これは文章を読んでいないのだ。又、交換法則云々と言っているが、これは文章を理解し数値に変換した後の話だ。しかしながら、文章題で計算過程を書かせるということは、思考順序が見たいからであって、結果として数学的に矛盾が無く答えが合っていれば良いというわけではあるまい。そのように、教師と出版社は考えているのだろう。

この方針を批判したいのならば、交換法則など持ち出してはいけない。一旦数式になった以上、日本語が介在する必要は無いのだが、出版社の主張はそうなる以前に日本語を理解できているかということだからだ。例えばよくある証明問題で両辺にXを掛けてから差を採ることで余分な項が消えて解けるようになるというのがあるが、両辺にXを掛けるのは日本語で説明できる問題ではない。それは「そうすれば数式がとけるから」そうしているだけなのだ。一旦数式になってしまえば、その系内で無矛盾でありさえすれば問題は無い。x×8も8×xも気にする必要が無い。だから批判するのならば「自然言語を理解していようがいまいが、数学的に矛盾しなければいいではないか」というものか、数式になる以前の日本語について「採点者の日本語理解が硬直しすぎている」と主張するといった二点となるだろう。

交換法則を持ち出すのは前者なのだが、これは「文章題に於ける日本語の理解なんて重要じゃないよね」と主張することになるわけなので説得力的にどうなのかと思う。そうすると後者の日本語理解に突破口を見出すわけだ。

---------------------------------------再度引用----------------------------
日本語でも「x円のノート8冊の代金」は「8冊のx円のノートの代金」と書き換えることもできる。
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「8冊のx円のノートの代金」という言い換え自体そんな風にいわねーしそんな風に思考しないだろと言いたいところだが、それは置くとしよう。問題はいかなる自然言語であろうが「8冊のx円のノートの代金」を8×xと解釈することは難しいのではないかということだ。つまりこの筆者の日本語解釈機能が一般的ではないということだろう。そういう解釈をする人がいるということだけで、標準にするのは誤りだと考える。

いろいろごちゃ混ぜになっていて何を言いたいのか分からなかった。出版社に対する批判のようだが、果たしてこれが批判になっているか大いに疑問だ。

降水確率90%でも晴れる日がつづくので、気象庁が当てにならない?

先日「世の中に100%と0%というのは存在しない」と主張する人がいて、まぁそう言ってしまえばそうともいえるのだが、それによって彼が何を言いたかったのかわからないので話のあわせようが無かった。確かにイカサマでないサイコロであっても、100万回振ってすべてピンがでる確率は0ではない。だがそれが何だというのだ。そんな彼が降水確率90%なので雨が降らなかったことで気象庁がどうとか言っていたので、以前の発言は誰かの受け売りで格好良いと思ったから言っただけのことだと気付いた。


wikipediaでは「降水確率は、過去に同じような気象状況となった際の降水の情報をもとに、統計処理により確率を算出する。」とある。こんなことは当たり前で降水確率90%というからには、たぶん100000日とかそれくらいの日数があってそのうち90000日雨が降ったとかそういうことだろう。ただ、江戸時代の気象状況について気圧やら湿度やらの細かい情報が残っているとは思えないし昭和初期の記録があるとも思えないので標本は過去数十年ではないだろうか?この標本の数というのが重要なのだがWikipediaには記述が無いので何とも言えない。又「過去に同じような気象状況 」とあるが同じようなとはどのように判断したかもかかれていないのでどうしようもない。気温気圧はあるだろうし、もしかしたらドブ川のぼうふらの数とかもあるかもしれない。


なんにせよ、直近10日の天気予報が全はずれであったとしても、別に気象庁の責任ではない。責任があるとすると標本数が確率論から逸脱した数であった場合とか「過去に同じような」の判断材料が不適切だったとかそういう場合であるが、まぁまさかそんなことは無いだろう。さらに降水確率100%なのに雨の降らない日が2回続いたとしても別に問題ではない。10%刻みで99%という表記をしない以上、99%は100%と同じ意味なので数日のはずれは当然ありえる。況や正味の意味で100%だとしてもいままでそういった状況では常に雨が降っていただけで今後降らないとは言えないので別に気象庁のせいではない。他にも直近に重みを置いた確率を使っているとか、 「過去に同じような」の判断を時々変えているというのはあるかもしれない。いずれにしても経験則で言っているだけなので外れるのは当たり前だということだ。


そもそも、「いままでこういう状況ならこれだけの日数こうなっていた」といっているだけなので、天気予報に「外れ」という概念はないのだ。

新確率論

食物連鎖発言のブラマヨ吉田 「パチンコで人生教わった。『確率は収束する』というのを伝えたい」


まぁ、パチの宣伝もあれだが、こんな確率論はないぞ。サイコロを5回振って連続で1がでました。次に1が出る確率は何でしょうか、という問いに1/6より小さいという答えに等しい。所謂独立ってやつなので、常に1/6です。パチンコも完全勝つ確率と負ける確率が半々ならば(テラ銭の分必ず損なので、半々はありえないが。半々ならパチンコ屋が儲からない)、負けが10回続いたからといって次に勝ちが来る確率はやっぱり1/2だ。


この収束というのが使えるとしたら、サイコロを100万回とか振っている場合だけだろうな。

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